しばらくは、実験・練習的な投稿がつづきます。従って、一応の注意として、厳密さは意識せずにに書いていることと、孫引きなども含み、また、原典を逐一確認している訳でもないことを予め断っておきたいと思います。文体についても、不整合であったりする場合があります。気楽にお読みいただければ幸いです。

 

1 序

 明治維新に関して、近代日本の自画像を形成する原イメージがこの維新革命期にあることは、疑いがないだろう。国民的語りとして、この時期を巡る言説はまさに「物語=歴史」というに相応しい。しかし、一度遠景のスケッチからそうした言説の中に分け入り、いかなる意味内容が自生しているのかを捉えようとしたとき、すぐに我々はその混沌とした情景に戸惑うことになる。ある人はそれを西洋化として捉え、またある人は国民国家の創設と捉える。同様に、先見の明に満ちた偉大な変革と捉える向きもあれば、その逆に、古来の親政の復古として捉える人もある。そのようになると、明治維新という言葉は、何か明確に分節され定義づけられた言葉というよりは、そうした文節の対局にあるような一切を包含するための便宜的取決めであるように思われてくる。実際に、明治維新や、更にしばしばそれに加えられる「近代」という言葉の用いられ方を見ると、使用者の抱く感情とその言葉を投げかける対象によって、言葉の持つ色合いが相関的に定められているような感覚を抱く。
 しかしながら、こうした複雑性は、歴史そのものが自身において内側に把持するものであるのだろう。ヘーゲリアンであったマルクスは、商品に関連し、すべて有用なものは、複雑なものの全体である、と書いた。このことは、歴史、社会、あるいは我々の関与するもの(res)全てに当てはまる。例えば、社会についても、経済学が構築する社会と、法律学が構築する社会とでは、大きく異なるが、それでも社会が2つ以上ある訳ではない。あくまでもそれは1つしかない、定冠詞で語られる特有のものだから。だから、こうした概念的な構築物については、客観的・あるいは外的なものによって区分されるのでなく、むしろわれわれのパースペクティブ・視点によって分けられ、従って、いかなる言説が真理であるのかよりも、いかなる視座を基礎とするのか、ということを考えるのが有用であるのだろう。

 

2 トクヴィル

 先に、維新という語の多義性について書いたときに、近代という語の多義性についても触れた。ここではまず、「近代」という言葉について、トクヴィルを基点に考える。日本において近代という言葉が使われるとき、「西洋」、「欧米」という大雑把な区分に表されるように、その実質的な指示内容がなんであるのかが問題とされることは少ない(英米独仏が全てまとめて扱われる)が、トクヴィルについて書かれた本を読むと、ひとつの座標軸を得られる。
 トクヴィルと言えば、デモクラシーに関しての古典的位置を占める人物だけれども、そのトクヴィルは、デモクラシーという言葉を、アリストクラシー(貴族政)の対義語に置いた。そうした見方からすれば、デモクラシーについて、少し異なった風景がみえてくる。例えば、中国についてしばしば非民主的であるということ(専制国家)が言われるが、この用法に従えば、中国がアリストクラシーによる統治ではない以上、中国はデモクラシーの国家ということになる。(表現の自由などのあり方を基軸にすれば、また評価は異なってくる。イギリスでは、ミルトンなども表現の自由について書いているし、フランスでは、無神論のパンフレットが地下出版で流通した。総じて、表現の自由は宗教対立に絡みながら精神の自由や法及び国家の世俗性をも問題の範疇に含み、ひいては公法の基礎にも問題を投げかける。ただし、こうした問題の重大性が日本や東洋で本当に理解されているのかについては、個人的に極めて懐疑的である。)さらに、そうした意味では、中国は歴史的にかなり早い段階からデモクラシーの国家であった、ということにもなってくる。このことは極めて示唆的であって、我々を単に時間軸に従った事象の配置という発想から脱離させてくれる。つまり、座標軸として近代か前近代かというメルクマールを単純に設定することから、国家権力の形態を問題とする発想へと転換させてくれる。
 そのトクヴィルは、『旧体制と大革命』において、アンシャン・レジームからフランス革命以後への過程を、断絶でなく連続において把握しようとしている。富永茂樹は、『トクヴィル 現代へのまなざし』において、

 

すでに十八世紀からフランスでも平等が進展しつつあったと『デモクラシー』で述べられることは、晩年の著作では絶対君主の存在よりもむしろ中央集権化した行政国家の発達という抽象的な命題に変換されます(83ページ)


と書き、続いて、

“以前は一群の二次的な権力、身分、階級、職業、家族そして諸個人のなかに散らばり、社会全体のうちに散乱していた権威と影響力のすべての断片を引き寄せひとまとめに飲み込んだ巨大な中央権力の存在に気づく。(1ー2)”革命がもたらした「残骸」のもとで棲息し続けた「巨大な中央権力」ーこれこそが革命以前と革命、さらには革命後の世界をつないでいるもの、アンシャン・レジームと革命の連続を証するものです。(90ページ)


と書いている。
 こうした、行政を基盤とした強力な中央集権国家、という視点は、国家形態を考える時に重要で、例えば憲法学においても、

近代国家は、ヨーロッパの歴史においては、それに先行した封建制社会を解体しつつ登場したため、その特徴の理解は、通常、封建制と対比することによって行われる。封建制社会においては、封建諸侯(領主)が地方の支配権を握っており、政治権力は国王のもとに集権化されることなく地方分散的な状態にあった。国王権力は、王国全土を直接的に支配することはできず、地方領主との封建契約を通じて間接的に統治しえたにすぎない。、、、国王は、この封建的な構造を徐々に解体し、領土と国民に直接的支配権を及ぼす中央集権的な最高・独立の統治権(主権)を確立していくが、それが「絶対王政」と呼ばれる体制であり、国家は絶対王政とともにはじまるのである。(高橋和之立憲主義日本国憲法』3ページ)


とされる。
 要するに、ここでのキーポイントは2つあり、一つは在地権力の存在とその解体、もう一つは非身分制としての平等(社会的地位の獲得にあたっての、身分制の否定)であるということになる。
 この内、ここで特に重視したいのは1つ目で、これがまさに中国が宋代に既に経験し作り上げたもので、維新史の視座に一つの視点を投げ込んでくれる理由になる。このことは、次の宋史の部分で触れる。

 

3、宋史

 中国宋代における中央集権化について、周藤吉之=中嶋敏『五代と宋の興亡』(講談社学術文庫)に依って見ていく。まずは宋代以前の政治状況から。

 

南北朝・隋より唐の初めにわたって、中国では門閥貴族による貴族政治が行われてきたが、唐の中期に起こった安史の乱の後は、節度使の勢力が台頭して、地方の軍事・民政・財政の権を掌握し、あたかも封建諸侯のごとくであったので、藩鎮とよばれた。こうして出現した軍閥割拠の形勢、すなわち藩鎮の跋扈の状況は、唐朝の衰亡の原因となった。(p33)

 

ここで重要なのは、中国において宋代以前では中央権力が在地権力に干渉できない、という封建制の特徴がまざまざと現れていることだ。こうした在地権力というものは武人統治などと言われるが、イメージとしてはヤクザに近い。国家が崩壊した世界でのヤクザをイメージすればよいと思う。領域的テリトリーに縄張りを張り巡らせ、そこを自らの権勢と利益(つまり排他的権利だ)の基盤とする。法治の手段である国家の暴力装置が完全に失われた場合、表の社会と裏の社会の区別が消失し、ヤクザのような暴力組織が在地権力として蔓延ることになるだろう。現代では、国家権力の警察力や軍事力は絶対的なものであるためヤクザも「裏」の社会に隠れるが、近代兵器等を持たない歴史上の殆どの国家においては、国家権力というものは普通に思われるよりも脆い。

 


反乱の中心となったものに安史の乱の降将の後身である魏博・成徳・盧龍の、いわゆる河北三鎮がある。これらの藩鎮は租税を中央に送らず、官吏をほしいままに任命して、唐代を通じて自立しており、これを称して「河北の旧事」といった。このほかにも黄河の南北の諸藩鎮の中には、はじめ自立していたものがあった。、、、黄巣の乱が始まると、文官出身節度使は作戦、統率のうえで無能ぶりを露呈し、すべて失脚してしまった。これに代わったのが、土豪・兵士・盗賊出身の武人節度使で、かれらには唐朝の権威や社会的伝統を尊重する気持ちはなく、前記のような事情もあって、唐朝と藩鎮のむすびつきは断ち切られた。そして、このような新しい節度使のなかから、、、五代十国の諸王朝が形成されたのである。(p52)

 

こうした在地権力の強大化と中央権力の弱体化という文脈の下、群雄が割拠する五代十国に突入する。そしてこうした状況の中国を再び統一したのが、宋の太祖であって、彼の政治的課題は必然的に、彼の時代の混乱をもたらしたものの否定~つまり中央集権国家の樹立~であるということになる。この仕事の方策を建てたのが、太祖の宰相である趙晋であった。

趙晋は太祖が太祖が即位した翌年、961(建隆二)年に、節度使対策を献じて、「方鎮(節度使をさす)がはなはだ重きをなしているのは、君が弱くて臣が強くなっているだけのことである。いまこれを治めようとすれば、ほかに奇巧(変わった策)はない。ただその権を奪い、その銭穀を制し、その精兵を収めれば、天下は自然に安定するだろう」といった。すなわち趙晋は節度使の民政の座を奪い、その財政を制し、その精兵を中央に収めるよりほかに策はないと進言した。(78ページ)

ここで、君と臣という言葉に注意してほしい。儒学ではしばしばこうした言葉遣いをするが、この君臣という言葉、これは現代に謂う中央集権や国家秩序について彼等が使う表現で、とても重要なものだ。そしてそれに従い、太祖はまず禁軍の掌握を行い節度使の軍事を押さえ、ついでそれと並行する形で節度使の民政権を奪い、最終的に、財政も節度使から奪った。特に財政については、

節度使はこれらの租税収入を、必要な経費を除いて、みな上供することとなり、その財政の権をも削られた。(p84

とある。ここに至って、在地権力が独立のした権力を全く持たない、中央集権国家が誕生するが、ここに統治の担い手としての科挙官僚が現れる。そしてこうした背景のもとに勃興したのが、道学であって朱子学であった。儒教が重視する名分論(君は君たり、臣は臣たり)は、こうした文脈で理解される必要がある。

4 朝鮮通信使からみえるもの

 以上を踏まえて明治維新に進んでいくが、その前に、朝鮮通信使が江戸・あるいは江戸時代の日本をどのように見たのかを考える必要がある。朝鮮通信使を通して日本を見ると、儒教的な価値観と当時の統治権との間にある相違が浮かび上がってくると同時に、明治維新の端緒自体はそれ以前に既に準備されていたことが見てとれる。姜在彦朝鮮通信使がみた日本』(明石書店)という本と共に見ていきたい。
 朝鮮通信使は、言うまでもなく秀吉の朝鮮出兵の講話交渉に端を発するが、かなり早い段階で既に江戸幕府や将軍の国法的な地位や役割についての問題が生じている。その問題の中心が、家康の王号を巡る問題だ。すこし長いが引用する。

交隣とは、平たく言えば、朝鮮国王と日本国王とが、対等の立場で国書を交換し、交わることであった。先にのべたように対馬島を経由して送ってきた「家康先為書契」にも「日本国王」の印信が押されていた。朝鮮の使臣たちはその真偽を疑っていた。、、、使臣は僧景轍玄蘇と島主に、つぎのように質問している。
「曰く、関白(大将軍)には王号がないというが、然りか。玄蘇答えて曰く、然り。
曰く、前日全継信らが持ってきた書契は、果たして家康の書契か。玄蘇曰く、そのとおりだ。何ぞ以って改めて問うのか。
曰く、王号がないのに、印文に何ぞ以って日本国王などと刻みたるか。玄蘇曰く、前日天朝の詔使が持ってきた印信である。そのとき前関白(豊臣秀吉)は封王の命を受けなかったが、印は詔使が置いていった。だからそのまま使っている。
われわれは笑って曰く、封王の命は受けず、印だけは使っている。なんじの国のことは分からない。玄蘇もまた、苦笑するだけで答えなかった。」(53ページ)

 この時、家康の王号を日本国王としたのは、徳川と李氏朝鮮の間で板挟みになった対馬の苦肉の策としての偽造だった。理由としては単純で、当時の国際秩序においては、中心国である中国の冊封を受けてはじめて国際社会の一員となる(冊封体制卑弥呼親魏倭王を思い出してほしい)のが基本ルールでありながら、日本の権力構造はそうした冊封体制とは遠く隔たったものだったから、対馬藩は文化的な翻訳(あるいはコンバート)をする必要に迫られた。つまり日本国王とされれば、朝鮮国王と対等になるし、日本国王を頂点とした国家体制を構築すれば、当時の国際社会に参加する制度的要件を満たしたことになる。しかし、そうした文脈で冊封されるべきは一体誰なのか。当然、国王であるということになるが、将軍は国王なのか。あくまでも武臣ではないのか。そうであるとすれば、そもそも国事を司る権は無いのではないのか。だとすれば、外交交渉の場に将軍が出てくるというのがそもそもおかしいという事になる。逆に、もし将軍が国王となるとすれば、そこには一種の革命が宣言されなければならない。
 この問題は第2回朝鮮通信使でも問題となり、李景稷はその使行録に

「関白はすなわち節政大臣で国事を専擅する臣下である。このため国中では天皇を「君」とし、関白を「王」と称しない。、、、将軍というのは、秀吉が関白になったのと同じことであり、将軍と関白とは別に異なるものではない。秀忠は関白になろうとしたが、天皇が許さなかったというのは、そのわけがわからない。、、、いわゆる天皇はたとえ尊い地位に居るといえども国事にあずからず、ただ官職の任命状に印を押す存在でしかない。関白が官位を与えるが、印を押すのは天皇である。」(84ページ)


と記している。それから150年以上経った1763年の朝鮮通信使では天皇と大君の名分論について、尊王思想との関連で注目すべき部分がある。趙嚴の『海槎日記』に関する章には、

「今の関白家治は、家康の六代目の孫になる。国王と称したときもあったが、吉宗のときから日本大君と改称した。これはまさに、君でもなく臣でもなく、その名号が正しくない。、、、
また聞けば、昔は関白がなお、或いは倭皇に朝覲していたというのに、百余年来この礼を廃止しておこなわない。故にやや知覚のある者はうっぷんの意をもち、あるいは嘲笑する者もいた。もし真の英雄がでたなら、あるいは争奪の事が怒らないとも限らない」、、、
趙嚴のこのような探情報告は、朝鮮実学派の李よく(さんずいに翼)や安鼎福らが注目し、日本で「王政復古」したばあい、「かれ皇にして我れ王、まさに如何にしてこれに処せんとする」と、重大な疑問を投げかけている。明治維新後、この危惧が現実問題となった。(241ページ)

とある。以上のことからわかることは、(常識的ではあるが)江戸幕府の権力構造にある種のねじれがあり、それが当時の儒学の正統派からは、異様なものとして映っている、ということだ。換言すれば、儒学が導入され膾炙した段階で、徳川幕府は正当性を喪失する可能性を既に孕んでいたということになる。
 
 また、先に述べた在地権力を否定する中央集権国家とそれを支える儒学という観点から見ると、徳川の権力体制は国家としては実は極めて不完全なものであったともいえる。藩という言葉は、先に述べた藩鎮ということばから推察されるように、自立した在地権力を前提とする。つまり、藩というものは、幕府からは独立した存在として軍事、民政、財政の三権を行使するものであるから、上述した観点からすると、江戸幕府は中央集権的な意味では国家として見做すことができないとすら言うことができる。幕藩体制下においては、科挙が行われなかった点についても、官僚制を持たなかったことが理由であるとも言え、また、身分としての武士階級の存在もその裏返しであるともいえる。

5 維新

端的に言えば、明治維新というものは、その原動力としては、儒学的な国家観を目的としたものであると見ることができると同時に、中国や朝鮮において変革が失敗し日本が成功した理由もこうした相違から考えることができる。
 倒幕が成功した理由としては、理論的な正当性を江戸幕府が実は保持していなかったことと、藩が軍事権を放棄していなかったこと、この2つがあると考えている。日本においては長州藩が独自の常備軍を整備し、兵器を購入していったことが内戦をもたらすと同時に倒幕を可能にしたが、中央集権国家が官僚制を整備し、在地権力が軍事権や財政権を奪われたた中国や朝鮮においては内部的な方法によらざるを得ないがため改革が失敗し、国家権力の外部にある農民反乱という形以外とることができなかった。
 実際に西洋化(近代化)したのは事実だが、その本来の内実は江戸時代に醸成された文化に基づく儒国化にあったのだろう。